2016年3月23日水曜日

インプレッサで車中泊 -静岡(2日目)-

朝です。夜は暗くて今一わかりませんでしたがきれいな道の駅でした。
木造にこだわっているようで。
結局夜は冷え込んで今一眠りは浅く、ちょっと寝不足気味ですが、
今日は念願の長篠合戦場です。ずっと来たかったところなので、朝から
テンションがあがります。洗顔、歯磨き、トイレを済ませ、車で2,3分
の設楽ヶ原へ。

●設楽ヶ原合戦場跡
織田・徳川連合軍3000丁の鉄砲攻撃で、精強無比の武田騎馬軍団を壊滅
させ、以後あの巨大な武田家が衰退していくきっかけとなった、戦国時代
指折りの大合戦が行われた地です。震えます(笑。



連吾川にかかる橋から、模擬馬防柵を見たところ。実際には奥に見える新東名
陸橋くらいまで長大な柵がありました。




模擬柵は・・・まこんなもんでしょうね。実際にはもっと太くて
何重にも立てられていたと思います。


片隅に空堀、馬防柵、土塀という三段構えの防御陣地が復元されて
ました。これを一面にして欲しいなぁ。さぞ壮観かと。



実際にはこの山というか丘を野戦築城として、堅固な防御陣地にしていた
そうです。先ほどの三段構えの備えに、この陣地。そして大量の鉄砲隊。
よく鉄砲の三段撃ちで騎馬隊に対抗した、という話が有名ですが、実際長大
な戦線で号令一下に一斉射撃をするのは無理があったそうで、おそらくこの
堅固な陣地からの3000丁での個々の射撃でも、十分直線的に突撃する騎馬隊
を撃退することは容易であったことでしょう。


しかし改めて柵内から武田軍が布陣したと思われる向いの山までを見ると、意外と
距離が無くせいぜい200~300mくらいかと。なので騎馬突撃ならほんの数秒で
柵に殺到することが可能と考えられます。が実際当日は田植え時期で、この辺り
で馬が走れるところは畦道しかなかったというのが本当のところのようで、それ
以外は田んぼのぬかるみをのろのろ走るしかなかったのかもしれません。まさに
鉄砲隊の格好の餌食。突撃を敢行するも見事に撃退され、その絶望的な状況から
武田重臣達が必死に勝頼を諌めようとしたと、数々の小説などで描かれています。
その後もまさに死を覚悟して武田軍騎馬将兵は何度も悲劇的な突撃を繰り返した
ということで、数々の重臣、将兵を失い、武田騎馬軍団は壊滅となるわけです。

周囲には武田重臣達の墓碑が多数あったので、回ります。

甘利信康の墓碑。猛将甘利虎康の子です。模擬馬防柵へ向かう道そば
にあります。



武田軍が布陣した小山上の保育園の裏に、勝頼が指揮した地?(本陣は主戦場
より奥)の碑と、戦死者を弔う立派な招魂碑がありました。


武田四名臣の一人、内藤昌豊の墓碑。


横田綱松の墓碑。実父は鬼美濃原虎胤。養父は横田高松。
いずれも武田五名臣に数えられる名将です。


土屋昌次の墓碑。少し離れた住宅街の中にぽつんとありました。


馬場信房の墓碑。武田四名臣の一人。長篠城近くの住宅街の中に
あり、少しわかりずらいです。重症を負ってここまで来て力尽きた
ということです。

他にも山県昌景や真田信綱などの墓碑もあるようですが、場所がよくわか
らず、車で行けそうにもないので探すのを辞めました。
それにしても名だたる名将たちの墓碑ばかりがこんなに集中してあると
いうのが異様ですね。これだけでも凄まじい合戦場跡と言えると思
います。合掌。

次にこの合戦のきっかけとなった長篠城へ行ってみます。

●長篠城
重要拠点として徳川と武田が争奪を繰り広げ、この長篠城の戦いが、結果
して織田徳川連合軍を援軍として招き、悲劇の設楽ヶ原合戦となるのです。



背後は自然の川を掘とした断崖絶壁。表側は深い堀でかなりの防御力
を誇った城です。下の石碑右に見えるのは土塁跡と思われましたが、
説明は無かったです(苦笑。




今は空堀ですが当時は水堀。かなりの深さがあり、斜面も急峻です。
当時はもっと険しかったことでしょう。


本丸。広大です。


本丸土塁。ところどころの石垣は現代に作られたものでしょうね。


二の丸(左)と弾正郭(右)。その間の水路は当時は掘。もっと
深く広かったと想像します。


長篠城攻略のために武田軍が周囲の山頂に付砦を作ったのですが、
その一つ鳶ヶ巣山を見ます。信長の指示で、徳川配下の酒井忠次隊
が攻略に成功し、これをきっかけに武田軍は城の攻略をあきらめ、
設楽ヶ原に出て行かざるを得なくなり、決戦を挑むしかない状況に
追い込まれた、という説が有力だそうです。まさに鉄砲隊の前に
騎馬軍団を引きずり出す信長の巧妙な戦略といえます。


川にかかる橋からのショット。長篠城といえばこのカットですよね(笑。
二つの川と断崖絶壁が非常にこの城の防御力を高めています。

遺構は本丸以外なく、こじんまりとした印象ですが、それでもこの城
の防御力の高さは感じられました。500の手勢で約20000の武田軍の攻撃
を凌いだというのも頷けますね。

次は浜松へ移動します。

●浜松城
信玄の三河侵攻に対し、それに備えるため家康が拠点とした重要な城。
三方ヶ原の合戦では、この城に篭る徳川軍を無視して横を素通りし、
激怒した家康が追い討ちを掛けるも、まさに鎧袖一触で粉砕され、便を
漏らしながらこの城に撤退した、ということでも有名です(笑。

城はほぼ公園化されていて、遺構は天主周りしかないようです。


まず見事な石垣と天主曲輪の天主門が見えます。ただ天主曲輪なので
規模は小さいです。



天守閣が見えてきました。小ぶりですがいい天主です。
しかしこの天守閣は全く想像の模擬らしく。天主が存在したことは
確かだそうですが、当時の資料が全く残っていないそうです。







天主とその周囲の石垣。独特な形の石で荒々しく積まれた石垣はなかなか
見所があります。ただこの石垣は、家康が関東移封後に城主となった堀尾
吉晴時代のものだそうです。

ちょっと期待してたのですが、遺構が天主周囲だけということで、規模が
小さく、あまり観光ポイントが無かったです。ただ石垣は独特で見ごたえあり。
また天主も小さいですがなかなかいい雰囲気のものでしたね。

次は掛川へ移動します。

●掛川城
掛川城は今川→徳川所領で、家康関東移封後の豊臣政権下では
山内一豊所領となったことで有名。今の遺構はその当時一豊により
拡張整備されたものだそうです。


ちょっと離れたところに有料の立体駐車場が。城を模していていい
感じですね。



駐車場を出てすぐに大手門がありました。遠くに天主も見えます。
ただまだここの周囲は住宅街です。


川を天然の堀としていたことがこの写真でわかりますね。
てくてく天主目指して住宅街を歩きます。


ようやく天主丸に付きました。城壁もきれいです。





天主丸に上がり天主を仰ぎ見ます。なかなかいい天守閣ですね。
同じ一豊の城、高知城の天主を参考にしたそうです。
しかし天主丸は狭く、え、これだけ?といった拍子抜け(苦笑。


その他遺構は、十露盤(そろばん)堀とか腰石垣、玉石側溝などあり
ましたが、今一地味でした(苦笑。写真は三日月堀。かろうじて城っぽい
遺構かと。

ま、こんなものですかね。


で観光は全て消化。この近くから新東名に乗って帰ります。
新東名はさすがにきれいで、走りやすかったです。
途中、駿河湾沼津SAに寄りました。

ちょっとガスってますが、駿河湾が一望できたらさぞいい景色でしょう。

なかなかの強行軍でしたが、充実の旅でした。
やはり車中泊での睡眠改善を痛感しました。ちょっと睡眠導入剤でも
考えてみますか(汗。


0 件のコメント:

コメントを投稿